「余生」・・私が漠然と感じているのは現役を退いてその後の人生を意味する言葉である。50歳代に入ってからだと思うが会社で休日出勤の昼食後のホッとした時にふと老後の事を考えた。
定年退職したら、まだ働いている筈だ少しでも貯蓄し山の中に小屋を建て農耕雨読的な余生を送ろうと夢をみた、そこには露天風呂も作ってと・・・しかし実現するためにはまず山林が必要だ。
丁度その時一緒に同じ会社の同僚が隣町に広大な山林を持って居て少しなら安く売ってあげるからと言う話が出て1,300坪を手に入れた。
自分で伐採し山小屋用の土地の整備、林道迄の道作り、湧き利用の水道の整備、休憩、道具入れ用の小屋を作るなどで、ある程度の投資をして汗を流したのだった。
現実はどうか、心臓病で55歳で退職、絶望の時を克服して、その後77歳まで20年間勤務した韓国企業に勤務出来た。今は地元の中小企業の顧問として支援をしながら趣味生活で忙しく動き回っている。今年になって間質性肺炎を発症した患者にもなってしまった。
満85歳が近づいている現在、若い頃考えた私の余生はこれからくるとは思えない。今が夢見た余生暮らしとすればこの違いはなんだったんだ。生きて行くためには希望というロマンが必要だっただけなのかな?
コメント
顧問として必要としてくれる会社があり、趣味がたくさんあって日々忙しく過ごしている現在の『余生』は、柿澤さんの思い描いていた形とは違っていても、羨ましがる方がたくさんいる『余生』です。
心臓病になって仕事を辞めたからこそ出会えた人、山暮らしではない趣味に没頭したからこそ、そして山を諦めなかったからこそ出来た人間関係、傍から見たら、何が起きても楽しいことに出会っているではないですか。
ロマンを持ち続けたからこそのご褒美です。ロマンは永遠に持ち続けたいですね。
シジュウカラさん、コメントありがとうございます。
確かおっしゃるように見えるかもしれませんが、苦しいときもありますよ。
でも楽しいことはいつまでも続かない、悲しいことも続かない。
健康であれば誰でも一生はプラスマイナスゼロになると神様が定めているようです。
これからも希望と言うロマンは持って行きましょう。