「面倒くさい」を「楽しむ」

わが家のような高齢者二人だけの家庭では自由な時間があるのに年末での掃除、洗濯・・・など「面倒くさい!」とつぶやく、でも面倒くさいと思ってしまうのだから仕方がない。

玄関で脱いだ靴をそのままにして上る時にチクッと心に響くことがある。たった数秒の時間なのだが心が忙しいだけで・・自分の家だから、腰を曲げるのが「面倒くさい」からという理屈が付く。

玄関で靴を揃えないのは「心の乱れは足元にあらわれる」という言葉の通りである。心に余裕がなくなっている証拠だろう。ほんの数秒を使って「靴をきちんと揃える」という習慣を身につけることで、不思議と生活すべてがキリットしたものになる。

毎日の朝食作りやウォーキングが続けられているのは面倒だとは思わないから続けられている。毎日更新しているブログもあまり苦にならないのは一日を振り返って気が付いたことを文字と写真を利用するだけであり、しかも関連した内容を検索などすると新たな発見があり興味が増す。

こう考えると「面倒くさい」を「楽しむ」ということは心の持ち方で出来るのかもしれない。仕事、勉強、掃除、洗濯、運動、すべて全部しなくても死なないし別に明日でも良いのだ。

長い間続けている年末の掃除も風物詩と考え習慣化を身につけることで、生き方が美しくなる、人間と言うものはそういうものだと思う。

昼間のウォーキングも寒かった