終戦の年に7歳で父を亡くしたので父の面影は私には残っていない、その後は高校生だった兄、姉と妹の5人の兄弟を母子家庭で育ててくれた母は昭和57年(1982年)77歳で亡くなった。
戦後の食糧難の中で生きてゆくために必死にミシンを踏んでいる母の姿は今でも決して忘れられない。
私も家計を助けるため中学校を卒業したらすぐに働いた。あの時に働いた会社の社長から「君の将来にために話すが高校を出て進学しろと強く勧められた」ことが心の転機になった。
その後、勉強は好きだったの高校に通いながら社長の娘の家庭教師のアルバイトをしながら奨学金で通学したが家計は苦しく母には申し訳なかった思い出がよみがえる。
今思えば苦しい生活の中で学んだことは人々の優しさと、我慢して頑張れば道が開けるということだった。
いつも思うのはどんなことにも黙って耐えて頑固に厳しく懸命に支えてくれた母の恩に報いて来たのか、就職後も働くことに夢中で過ごして生前の母にもっと尽くしてあげられなかったのかいつも悔いが残っている。
毎朝、お茶と水を供えて仏壇に向かって感謝のお祈りをしているが、命日の今日は母が好きだった果物をあげて心を込めて感謝をしようー「合掌」