文藝秋春2月号の冒頭コラムに藤原正彦氏の「古風堂々」に哀しい子守唄という題で詩人の茨木のり子の詩「さくら」がほんの少し紹介されている
「……さくらふぶきの下を ふららと歩けば 一瞬 名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態 生はいとしき応気楼と」と詠んだ。
この中で「死こそ状態 生はいとしき蜃気楼」とはなんと衝撃的な言葉なんだろう。
「これらが現代の我々の胸に響くのは、日本人の胸に深く「もののあわれ」が埋め込まれているからだ。この高尚な美意識は、天災の贈り物だったのである」と藤原正彦氏は述べている。
「さくら」 茨木のり子(1992年作)
ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
据えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を
ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気
春夏秋冬、朝のウォーキングでサビ川の辺の草花を毎日眺めているときっと、美しく、はかなく、そしていとしき蜃気楼に見えるかもしれないが私には生きとし生きるものは「無」から「生」が生じて、また「無」に帰すという言葉でしか表現出来ない。
桜の花を「あでやかとも妖しとも不気味とも据えかねる花のいろ」とこの表現もすごいな、感受性の低い私からは出てこない言葉だ。