2001年9月

まぼろしの都(百済)とは韓国の三国時代(57BC-668)に栄え日本に先進文化を伝えた百済王朝の都であった所で現在では忠清南道・扶餘(プヨ)と呼ばれている町です。


ソウルから京釜高速道路で3時間大田(テグ)市のインターチェンジで一般道路に出ます、ここから西に向かいます、途中までは新しく出来た広い道路でしたがその後は1車線の細いくねくねとした道路を走ります、時々ダンプが向こうからくると運転手の金さんはその都度スピードを落し安全運転に徹していました。
日本の農村とよく似ている両側の畑と時々ある民家の風景を眺めながらしばらく行くと大きくカーブして緩やかに下ったところから町を見ることができました。そこが人口10万人の扶餘群・扶餘です、ソウルからの所要時間は4時間ほどでした。

新羅の首都であった慶州は世界的にも知られる世界遺産のある観光地ですので、観光客も多く高速道路も整備されています。その一方百済の首都であった扶餘には何もありませんでした。
唐と新羅の連合軍に破れ焼き尽された悲しい歴史があるこの町は、その後の韓国政府の開発でも取り残されてきた感じがしました、瓦のカケラしか残っていないようなそんな感じのする古都であると同時に日本のルーツを心で感じるまぼろしの都であり「違うけどなぜかなつかしい」という余韻が残る扶餘の旅でした。
博物館に陳列してあった百済時代の数多くの瓦の一部です。 今はもう無いのですが私の生家の瓦と同じような感じ の文様でした。 1400年前の瓦ですがなぜか懐かしい思いが よみがえって来まして不思議でした。

司馬遼太郎の「韓(から)のくに紀行」によれば百済は紀元前18年に成立し紀元663年の百済31代義慈王(ウィジンワン)の時(日本の天智天皇のころ)に滅亡した南鮮の一国家だということです。
・・・ところで百済はなぜ「クダラ」と読むのでしょう?韓国語では「ペクチェ」です、日本語として素直に読めば「ヒャクサイ」ではないか?これに関して「韓(から)のくに紀行」では百済人が渡来し「クンナラ(大きい国)」から来たという言葉が「クダラ」となったという説があると紹介しています。うなずける語源説です。

ここで少し歴史書に書かれている百済王朝に関して少し解説して置こうと思います。百済の始祖は北方の満州あたりから南下して来た扶余族で温祚王(オンソ)という王様から始まり、武寧王(ムニョンワン)の時代(501−522)が安定期を迎え、523年聖王(ソンワン)の時に現在の扶餘(プヨ)に移りました。百済王朝は文化的に日本の飛鳥時代に大きな影響を与えました。飛鳥京の建造技術や生活技術を日本にもたらし、王仁の漢字文化の移入や律令制度など大和朝廷の組成に影響を与えました。
日本への仏教伝来にも大きな役割を果たしたとされています。百済王朝は仏教文化には優れた国家を作りましたが、百済王朝最後の義慈王は若い時に隣国の新羅を軍事的に圧迫し、日本に使者を出したり国作りに励んだが中年以降「宮人と荒淫耽楽し、飲酒止まず」になったらしく、当然戦いには弱くなったそうです。日本に援軍を頼んだがこれも「白村江の海戦」で唐・新羅連合軍の攻撃に全滅してしまいました。その後多くの百済人が日本に亡命して来、この人々の先進技術で白鳳期の芸術文化が花ひらいたといわれています。

さて、私達の旅の話に戻ります。朝の早く出て来たので国立扶餘博物館には10時を少し過ぎに到着しました。観光客はまだ少なくガランとした館内をゆっくり見学しその後いくつかの史跡を回りましたので紹介します。

(日本・韓国・中国の比較年表を参照)


 

扶餘の町の全景です、真ん中の小山が扶蘇山 (プソサン)百済王朝最後の城砦と宮殿があった所です。 左の川が白馬江(ペンマガン)でゆったりカーブ しながら流れています。これから下流は錦江 (クムガン)となり群山市から黄海にでます。

(この写真は観光協会発行のパンフレットを コピーしたものです。)

1993年8月にこの金城山の山麗に新築した国立 館扶餘博物館全景です。毎週月曜日:休館、入場 料:400ウオン(40円) 日本時代に朝鮮総督府博物館扶餘博物館として この地にオープンしたがその後国立博物館扶餘 分館となり現在にいたります。

  扶蘇山(ソプサン)を登り始める晴れ上がって来たのでゆっくり歩いても暑く汗が出てきます。 なだらかな松林の中の散策で カササギ、やリス に出いました。途中、三将軍の廟があり、一番右が「ケペク将軍」の絵がありました。妻と子供を殺し 出陣し百済の為に戦った将軍だそうです。
落花岩(ナクファアン)と白馬江(ペマガン) です。
少し降りた所に落花岩に着きました。百済滅亡の時に約 3千名の官女が敵の手にかかるより下を流れる 白馬江に身を投げた姿が花の散るようだった事から名付けられた岩です。 この下に彼女たちを供養する皇蘭寺(コランサ)がありそこから観光船が出ていました。
白馬江から見た落花岩です。
観光船に乗り下から見上げた落花岩は木々に覆わ れて岩がよく見えませんでした。 川の流れは穏やかで波風ひとつありませんでした。


この他に定林寺(チョンリンサ)の五層石塔、韓国で最初に出来た宮南池(クンナンジ)などがあります。各所で昔の姿を取り戻そうと盛んに再建していた。運転手の金さんがふと「日本時代に全て掘り起こされみんな日本に持っていかれました」と語ってくれましたが事実はどうだったのか気になることです。

百済金銅大香炉(高さ:64cm直径:19cm)百済時代の技術の高さを表す傑作です。
帰りに観光案内所に立ち寄ったら日本語を話す女子社員がいました、お土産に高さ:25cmの複製品を記念に購入しました。価格は6万ウオン(6千円)でした。
日本に多くの文化を伝えたといわれる百済に関心のある方は是非一度扶餘に来て見てください、きっと懐かしい風物に出会うことでしょう。ここへの訪問はソウルからは高速バスで天安ー公州ー扶餘ですが、大変ですから貸切バス、または貸切タクシーが便利です。

↓百済から伝播した仏教文化が日本の飛鳥時代に花開いた様子が解ります。
金銅弥勒菩薩半跏像
(韓国三国時代)
金銅観世音菩薩像
(韓国・百済)
日本の古墳時代ですからこの時代の百済の文化の高さを物語っています、この時代の仏像も穏やかな美しさの顔が「百済の微笑」と言われています。
滋賀県にある「百済寺」推古天皇の御代に、聖徳太子の御願により創建された古刹です   法隆寺百済観音像

参考情報です。

  1. 韓国・扶餘郡文化観光課のHP(日本語)
  2. 日本・西の正倉院・百済の里(宮崎県)のHP

追記(2001年12月)
11月23日の天皇誕生日の記者会見で天皇陛下が「私自身としては、桓武天皇(781〜806)の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じている」と話され、そして「2002年韓日ワールドカップ共同開催を機に、両国民の理解と信頼感が深まることを願う」と述べられました。

この内容は日本のマスコミであまり大きく取り上げられませんでしたが韓国のマスコミでは大きく取れ上げら好意的に受け取っていました。しかし一部の新聞ではいまだに天皇と表記せず「日王」としている事や日本民族に対する韓民族の優越性を古代史の中から追い求める傾向があることにいささか違和感が残りました。

天皇発言に対する韓国マスコミの反応

 


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