独立記念館と柳寛順

2001年5月
 

柳寛順生家見学
独立記念館から約8キロのところに韓国のジャンヌ・ダルクといわれているユ カンスン(柳寛順 Yu Kwan-sun)の生家があります。以下韓国側の説明によれば次の通りです。


 
柳 寛順の写真 記念碑

柳寛順烈士(韓国式の漢字ですとこのような表現になります)は1902年11月17日、大韓民国は忠清南道天安郡(チョナングン)で生まれました。

彼女は、非常に活発で聡明な子供であり、地方を巡回してきたキリスト教伝道団の女性宣教師アリス・H・シャープに見いだされ、給費を得てソウル(当時は京城)は梨花学堂(現在の梨花女子大学)の普通科3年生に編入(13歳)することになりました。

1919年3月3日、韓国の民衆が民族の自立と、国家の独立をめざして日帝に立ち向かったのが有名な3.1(サミル)独立運動です。

柳寛順烈士は、同級生たちと小遣いを出し合い太極旗(韓国国旗)を用意してデモに参加しようとしました。

しかしながら、それは学校側によって禁止されてしまった。日本の総督府は、独立運動の多くの活動家が学生であったことから、各大学や学校に休校を命じた訳です。

3月13日、柳寛順烈士は故郷に帰り、地元の有力者に働きかけて説得し、4月1日(旧3月1日)、地元の並川市場(ピョンチョンシジャン)にて独立運動に立ち上がった柳寛順烈士は時に弱冠16歳でした。彼女は並列市場に集まった数千の群衆に対して、少女とは思えぬ堂々とした演説を行いました。群衆は、少女の訴えに感動しました。

「大韓万歳!」

人々の独立に対する意気込みは、彼女の演説によって頂点に達しました。
「憲兵分遣隊に行こう!」
誰からともなく、そのような声がわき上がりました!

人々は、日帝による圧制の象徴でもあった日本軍の憲兵隊に、平和的デモ行進を敢行しました。
それに対して憲兵隊は銃口をもってこたえたのです。これが世にいう並川事件です。
憲兵隊の発砲により人々の悲鳴が上がり、あたり一面血の海となりました。だが人々はひるみませんでした。

そのさなか、父・重権は憲兵隊の発砲により被弾、瀕死の重傷を負い、三日後死亡します。
急を聞きつけた妻の李少悌は、夫の恨みをはらすため、今度はデモ隊の先頭に立ちました。
だがその日の4時頃、夫の後を追うがごとく、彼女までもが憲兵隊に斬殺されたのです・・・。
目の前で一度に父母を失った16歳の柳寛順烈士にとって過酷な一日でした。
彼女は、デモの首謀者として日帝に逮捕されました。

そうして西大門刑務所に留置され、連日、過酷な拷問を伴った取り調べを受けるのです。
「首謀者は誰だっ!」
「私だ!」
彼女は、どのような拷問にも屈しませんでした。
1920年4月の恩赦の時にも、逮捕された多くの学生が釈放されたのに、彼女だけは釈放されませんでした。
自分の信念を曲げなかったからです。
「おまえたちは私の父母を殺し、兄まで留置し、無実の同胞を殺している。 その大罪はきっと神が裁いてくれるでしょう。 私は大韓の人間で、日本人の裁判を受ける理由はない! おまえたちに私を裁く権利はない!」 やがて、栄養失調と劣悪な環境と度重なる拷問により、1920年10月12日、柳寛順烈士は息を引き取りました・・・。
最後の言葉は、「日本は必ず滅びる・・・」でした。
韓国のジャンヌ・ダルクと呼ばれる柳寛順烈士の生涯です。

 

この場所も、チアムリ教会焼討ち事件のあったところもかなりの田舎です、当時日本警察と軍隊がこんな田舎まで統治していたのかとあらためて当時の徹底した制圧に驚きました。


柳 寛順の生家と彼女が通っていた教会(いずれも復元されたものです)静かな佇まいでした。

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