日本の主要新聞社の社説(2001−5) |
読売新聞
[歴史教科書]「韓国の修正要求は内政干渉だ」 日本の法律に基づく検定を完了した教科書に修正を要求するのは、明らかな内政干渉である。 小泉首相が「(検定後の)再修正は出来ない」と言明したのは当然だ。政府は検定制度の本旨を改めて説明し、毅然(きぜん)と対応すべきである。韓国政府は「要求は明確な間違いや、歪曲などに限定した」としている。 だが、修正要求の内容を見ると、疑問も多い。例えば、いわゆる従軍慰安婦問題は、今年度まで使用されている七社の教科書すべてが記述しているが、今回の検定では、そのうち四社が取りやめた。「つくる会」の教科書でも扱われなかった。これについて、韓国は「事実を故意に欠落させた」と非難している。実際には、韓国の言う「軍による慰安婦強制動員」を裏付ける証拠は、いまだに発見されていない。 むしろ修正の必要があるのは、工場などに勤労動員された「女子挺身隊」を、従軍慰安婦徴用だったかのごとく誤記する韓国の教科書の方である。教科書問題が日韓間の外交問題になった背景には、八二年以来の外務省の極端な事なかれ主義の対応もあった。 そのトップに就任したばかりの田中外相は、「つくる会」の教科書の実物を見もしないうちから、「事実のねじ曲げ」などと批判する不見識を見せた。外務省には今後、教科書問題では、特に、筋の通った対応を求めたい。 不見識は野党も同じである。民主党の鳩山代表は訪韓中、「つくる会」の教科書を「事実を事実と認めない教科書は遺憾だ」と決めつけ、各教育委員会がこの教科書を採択しないよう“政治介入”を呼びかける意向すら示した。鳩山氏は、この教科書が検定に合格した意味を理解しているのだろうか。まず検定も見落とすような事実の誤りを具体的に示した上で、批判すべきだろう。 歴史観、歴史認識の一致というのは難しい。日本国内でさえ、さまざまな歴史観、歴史認識の対立がある。まして、国や民族が異なれば、なおさらだ。 両国の研究者、教育者が地道な交流を通じて、根気よく相互理解を深める努力を続けていくしかあるまい。 産経新聞 「毅然と拒否」の姿勢貫け 【韓国の修正要求】 とりわけ、小泉首相の「再修正はできない」としたうえで、「批判されることは結構だ。お互いに見解が違うのだから」という発言は、国のリーダーとして当を得たものである。小泉氏は先の自民党総裁選でも、教科書問題について「日本の検定制度は中国、韓国とは違う。批判は自由だが、日本が惑わされることはない」といっていた。このときと全くぶれていない。 田中真紀子外相も、就任時には「『(新しい歴史教科書を)つくる会』の(メンバーが)つくるような教科書は事実をねじ曲げていると考えていた」と特定教科書を批判していたが、今回の韓国の修正要求には「文部科学省の検討結果をうかがってから」と同省の判断を見守る姿勢を示した。 焦点は、文部科学省の今後の対応に移る。遠山敦子文部科学相は「明白な誤りがない以上、合格後の修正はしない」としているが、一方で「今後、精査したい」「明白な誤りがあれば、修正する」ともいっている。これが何を意味するのか分からない面もあるが、いずれにしても、検定意見による修正作業は終わっている。 今回の韓国の要求はいずれも、歴史認識をめぐる韓国側の主張である。仮に精査するにしても、それによる正誤訂正などあり得ないし、あってはならないのである。文部科学省には、一層の毅然とした姿勢を求めたい。今回の教科書問題では、政治家の外圧に迎合する発言も目立った。民主党の鳩山由紀夫代表は今月初め、韓国を訪問した際、扶桑社の教科書を「偏狭なナショナリズムを持った教科書」と決めつけ、「各教育委員会で採択されることは望ましくない」と述べた。野党第一党の党首が特定の教科書を排除し、公正であるべき採択に影響を与えるような発言は慎むべきだろう。 教科書は日本の公教育の教材であり、そのときの政治的思惑や外国の事情に左右されてはならないことを、与野党とも自覚すべきである。 毎日新聞 歴史教科書 再修正とは別の方策探れ 文部科学省の検定に合格した8社の中学校歴史教科書について、韓国政府は、35項目にわたる再修正要求をした。歴史的に日本と関係の深い近隣諸国が、歴史教科書の内容に関心を寄せるのは当然だ。まして要求の過半を占めた扶桑社版教科書の申請本は、日本を過度に美化し、植民地支配での加害行為や負の側面には、触れていないなど問題が多い。優れた教科書と言い難いことは、以前触れたとおりだ。 しかしそうであっても、教科書検定制度にのっとって一度合格させた教科書の記述を、外国の要求によって再修正するようなことは好ましくない。事実の誤りがあれば別だが、日本側が主体的に判断することであり、応じるべきではない。検定制度に問題がないわけではない。が、現に機能している制度、基準に基づいて下した判断を別の要素によって変えるならば、その弊害の方が大きい。 教科書検定は、検定基準に基づき、検定調査審議会の審議を経て行われる。扶桑社版について、同審議会は137件の意見を付け、執筆者側は、すべて修正した。その結果「ストライクゾーンギリギリに入った」と判断したわけだ。韓国側が「日韓併合の過程での侵略行為と強制性を(なお)隠ぺいしている」と見るのは分かるが、そこは果てしのない議論になる。 韓国側は、他の7社の教科書記述についても、今回慰安婦の記述が消えた4社に復活を求めるなどの修正要求をしている。しかし慰安婦を書くか書かないかは、各教科書執筆者が判断すべき部類のことだろう。国が強制的に書かせるよう求める筋のものではない。 現行の制度では、検定基準により、学問的成果や資料に照らして検定していくことが基本だ。合格後は、教科書を使う側の判断、採択の問題になる。韓国には改めてその点に理解を求めていくほかはないだろう。検定制度改革は、それとは別に進める必要がある。 ただ、この問題には歴史的経緯があり、筋論で突っぱねるだけでは済まない。政府、文部科学省はこれまで、「植民地支配と侵略により、アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明する」(95年村山富市首相談話)との認識は、いささかも変わりはないと繰り返し表明してきた。忘れてはならない重要な視点だ。 今回の韓国の要求に対しても、その精神で真しに受け止め、誠実に対応しなければならない。検定終了後の再修正は無理だが、両国の友好に資する別の方途を探る知恵を出すべきだろう。 韓国側の専門家の指摘には、今後の教科書作りの参考にすべき点もある。日韓の研究者らが、日常的に共同研究する場を設けるのも一つの方策だ。アジア諸国の歴史資料の調査、分析を共同で行う機関があってもいい。歴史認識の溝を埋めるのは容易ではないが、史実の共有に向けての努力は、必要だ。今回のあつれきを、未来志向に転じる一歩としたい。 朝日新聞 ■再修正要求――よい教科書への一助に 要求は8社の教科書すべてに及ぶ。だが、35項目の指摘のうち25項目は「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した扶桑社の教科書に対するものだ。 指摘は「明白な誤り」「解釈がわい曲されている」などとし、その理由を示している。抽象的な批判ではなく、日本でも検討が可能な具体的な指摘の仕方だ。 隣人が専門家を集め、きちんと検討した上で申し入れてきた意見である。虚心かつ冷静に耳を傾けたい。 指摘には、なるほどと思われる点がある。たとえば、扶桑社教科書の「中国の服属国であった朝鮮」という表現は、すでに日本の歴史研究者たちも疑問を呈していた点だ。また、この教科書に色濃い自国本位の偏狭な歴史観は、私たちも批判してきたところである。 ただし、日本政府が検定のルールを逸脱して、教科書発行者に再修正を命じるようなことは好ましくない。 検定規則には検定済みの教科書についての訂正のルールが定められている。誤った事実の記載などを発見した時は、発行者は自主的に訂正申請をしなければならない、とされる。文部科学大臣が発行者に訂正申請を勧告することも可能である。 遠山敦子文部科学相は、韓国の指摘に対して「客観的、学問的見地から精査したい」と述べた。その通り吟味し、必要な点があれば勧告を検討すべきである。扶桑社をはじめ、各教科書発行会社も、今回の指摘をきちんと受け止めてほしい。「誤りだ」などとの指摘に対して、反論があれば、韓国の学者たちと正々堂々と実証的な議論をしたらよい。 誤りだと分かれば、訂正するのは当然だ。正確でバランスのとれたよい教科書を、子どもたちに届けることこそが、何よりも大事なことだ。検定さえ通ればそれでよい、というものではあるまい。 日本の一部には韓国などからの批判に対し、「不当な外圧だ」とまなじりを決する向きもある。狭量というほかはない。指摘を主体的に受け止め、正しいと思えば受け入れ、正しくないと思えば退ける。そうして、日本の教科書をよりよくするのは、いいことではないか。 今日の国際社会で、19世紀的な「国家主権論」を振り回し、他者の意見に耳をふさぐような態度は時代遅れだ。先の主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)での相互注文の例を引くまでもあるまい。日本からも、他国の教科書で気づいた点には遠慮なく意見を言っていきたい。そのために外国の教科書の翻訳を進める態勢づくりも検討に値するだろう。 今回の出来事を機に、子どもたちが互いに他国の歴史や考え方を理解し合えるような教育の国際化を進めていきたいものだ。 ■歴史教科書へ戻る |