鹿児島・熊本のひとり旅

2018年4月


 
 今年からNHK大河ドラマ「西郷どん」が始った。昨年末から次のひとり旅は何処にしようかと考えていたが、このドラマを視聴するようになって『そうだ・・”鹿児島に行こう”』」ということになり、桜の季節に熊本を経由する4泊5日の旅になった。

 「ひとり旅」はポイントを絞って歩いて訪ねるのが好きです。旅先では失敗もありましたが多くの人の暖かい親切さに助けられたことや、各地の満開の桜を堪能出来たことが旅の思い出として残っています。

 

   鹿児島へ(3月27日)
   
 出発直前に上野公園の桜が満開になっているニュースがあった。そこで早朝に自宅を出て上野駅で下車して満開の桜の下を歩いた、朝の8時なのに多くの外国人が歩いていたのでインバウンドの増加を実感した。

上野公園の満開の桜

 航空券はJALの先割で2ヶ月前に購入した。日程変更が出来ないのが欠点だが往復で22,000円と割安なのはありがたい。鹿児島空港からリムジンバスで鹿児島中央駅に着いたのは午後2時頃、まだ時間はあるので市内循環のカゴシマシティビューバス(170円)で桜島を眺められる展望台に出掛けた。

 春の風を感じながら、城山展望台からのすばらしい風景にみとれていたら中国人の団体に囲まれた。桜島を背景に自身の記念写真を撮りたかったので中国人のおばさんに身振り手振りで頼んだ。直ぐにOKしてくれ「ポーズをこうして・・!」と言っているようだ、いろいろなポーズをさせられたが・・後で眺めてみるとただ立っているだけより、思い出に残った写真になった//おばさんに感謝!。

桜島が噴煙を上げているのがよく見えた
黄色いシャツの中国人団体  ポーズを変えて3〜4枚撮った中の一枚 
   
 展望台からは鹿児島市のまちあるき「西南戦争激戦地!西郷隆盛終焉の地」のモデルコース(2.7km)を歩いて戻った。それぞれの史跡場所でゆっくり説明文を読んで感慨に浸った。

モデルコース(クリックで拡大) 当時の薩摩軍の陣地(掲示板の写真から)
 
 城山からの出発点の表示が無く売店の人に聞いた道はモデルコースとは違って車道伝いに降りる道だった。西郷洞窟→西郷終焉の地→私学校跡→鶴丸城→篤姫像など見て最後は西郷隆盛像である。ここまで約2時間歩いた。しかしここから電車駅までの道が解らず地元の人に尋ねたら親切に教えてくれた。願わくばコース案内にも表示し欲しかった。

車道を歩いているとこのような12像に出会えた 西郷さんが5日間居たという洞窟は小さかった
終焉の地は洞窟から近かった 鶴丸城入口の石垣の弾痕跡がなまなましい

 鹿児島では「敬天愛人」という文字が観光地の看板などに使われていて目に付いた。西郷隆盛が好んで使い、よく揮毫した言葉だそうだ。意味は「天を敬い人を愛する」ことだそうで西郷隆盛の生き方に地元では人気がある。

 日本の重要な近現代史を彩った西郷隆盛と大久保利通の二人。政府軍を相手に最後まで武士としての行き方を忘れなかった西郷隆盛は鹿児島県民に愛されてる。しかし明治政府の中央集権体制確立させた大久保利通の方は不人気のようだ。

堂々たる西郷隆盛像 黒豚の焼き肉が美味しかった
 
 西郷隆盛像は「昭和12年(1937年)」に作られたが大久保利通の銅像は没後100年を記念して昭和54年(1979年)にやっと製作された事からも二人に対する鹿児島県民の感情を現わしているような気がした。

 昼は豚骨味の鹿児島ラーメンを食べ、夕食は名物の黒豚の焼き肉にしたが豚肉の美味しさを改めて感じたのだった。

  維新ふるさとの道 (3月28日) 
   
 鹿児島中央駅の近くの甲突川(こうつきがわ)の辺に歴史ロード「維新ふるさとの道」があり鹿児島の歴史を体感しながら朝の散歩を兼ねて歩いた。

 明治維新の功労者である大久保利通の像を見てから川沿いの道を歩くと「維新ふるさとの道」となり維新の偉人達が数多く輩出した加治屋町という薩摩藩の、下級武士が住んでいた場所につながっていた。

 明治維新を中心に薩摩藩や日本の歴史についての展示を行っている「維新ふるさと館」や西郷隆盛の生い立ちの地、郷中教育の基礎となった「いろは歌」の歌碑などがあった。

 印象に残ったのは薩摩藩特有の郷中(ごじゅう)という町単位の教育システムとその内容で維新の人材育成がうまく機能していたことだった。
 
 「維新ふるさとの道」の桜も満開
甲突川(こうつきがわ) 下級武士の家が再現されていた
西郷隆盛生誕の地の記念碑 郷中教育の基礎のいろは歌
  仙厳園(磯庭園)へ (3月28日)
 
 維新ふるさと館から仙厳園へのアクセスを検索するとカゴシマシティビューバスが表示される。しかしもう一つ「まち巡りバス」というのが同じルートで巡回してこちらの方が巡回時間が多く便利なバスがあった。どうも運営会社が違うらしいが一日券(500円)は共通でないから紛らわしい。

 
 維新ふるさと館は南州橋の袂  まち巡りバス

 仙厳園に入ってから直ぐに反射炉跡など見て回った後に御殿の中にも入って歴代・島津家当主が眺めたであろう美しい庭園と桜島を見入った。

 
 仙厳園の庭
旧正門 石灯籠の上部石は6畳あるようだ!
御殿の内部から見た庭 桜島を背景に
 
山厳園の満開の桜と桜島

 仙巌園の見どころのひとつに、御殿の裏山中腹に巨大な岩があり、そこに「千尋巌(せんじんがん)」という文字が書いてあるというのがネットであったのだが・・気が付かなかったので案内所に戻って尋ねた。

 御殿の庭から屋根の向こうに見えるというので再度戻って眺めたら確かに遠望出来た。この3文字は、「とても大きな岩」というような意味らしい。27代藩主島津斉興が1814年に作らせたとあった。

 仙厳園の案内図に書いてあった12番がトレッキングの入口になっている。所要時間100分というミニトレッキングコースが出来ていた。千尋巌と書かれた巨石が近くで見られるかもと期待して登山口に向かった。

トレッキングコース(クリックで拡大) 「丸に十の字」は島津氏の家紋

 集仙台登山口と書かれた箱に竹杖が入っていた。ちょうど良いので拝借して登ることにした。登山道は思ったより急勾配の階段が続くのでこの竹杖は必需品である。

 木洩れ日の中、苔のはえた石段がつづくほそい道を登って行く、聞こえるのは鳥のさえずりと、風が木の葉をゆらす音ので和風トレッキングコースという感じだ、混み合っていた観光客がここまで来る人はいるのかなと思いつつ登った。

 
 
シャクナゲが見事に咲いていた
集仙台登山口と書かれていた   急勾配の石段が続く
 
 登山口から15分で「観水舎跡」に出ると前面に桜島が迫り左側には時雨の滝が見えた。汗ばんできたので一休みして更に15分程度のぼると頂上の「集仙台」であった。眼下に御殿前面に桜島の絶景がみられた。しかし、長さが11mもある「千尋巌」と書かれた岩が近くで見られるかと期待したが見ることは出来ず、往復した間には誰にも会わなかった。

 
時雨の滝が見えた 山頂にあった集仙台の説明
 
 眼下に山厳園と正面に桜島の素晴らしい風景
 
 仙厳園に入ってからトレッキングすることを決めたので菓子でも買おうと思ってたがそのような店もない。仕方が無いので和風カフェという高級感のある「仙巌園茶寮」に入った。外国人と日本人数名がお茶を楽しんでいたので少し場違い感はあったがここでで鹿児島の銘茶と銘菓(かるかん)をいただいた。トレッキングから戻ってからレストランで黒豚ロースカツセットを食べてやっとお腹を満たした。
 
抹茶とかるかん  黒豚ロースカツ
 
 帰りはカゴシマシティビューバスが来たので乗車し途中の「ドルフィンポート前」で下車して「かごしま水族館」近くの桜島へのフェリー桟橋や砲台跡など見て回った。

フェリー桟橋近くからの桜島 大砲を据える台場の跡、たんたど石
 
 薩摩藩の島津斉彬という殿様が早くから植民地化を防ぐために富国強兵、殖産興業を進めたことが解った。仙厳園の尚古集成館を見ても、開国してもいない頃に造船、造砲、紡績、硝子、印刷、電信などの技術革新的な動きがあったことに驚く。

 当時の薩摩藩が西欧からの軍事的な圧力に直面していたからこそ防衛のため大砲を据える台場も建設したのだと砲台跡を歩きながら感じた。この砲台は江戸のお台場よりも早く建設されたとの説明文があった。台場に使われている石は現地で産出された「たんたど石」で先日のNHKの「ブラタモリ」でも紹介されていた。(本日の歩いた歩数:18,997歩)

熊本・田原坂を歩く (3月29日)
  西郷隆盛の終焉の地であった鹿児島の城山から田原坂へと西南戦争の戦跡を逆に辿っている感じだが新幹線熊本駅で乗り換えてJR鹿児島本線で木葉駅で下車した。実は歩くなら距離は田原坂駅で降りた方が距離的には近いが急な登り道や間違いやすい道らしいので木葉駅とした。

 木葉駅から田原坂公園入口までは約1kmぐらい狭い国道208号線を歩く。車が多く非常に危険な道だったのでゆっくり歩いた。30分ぐらい歩くと田原坂入口の表示があり近くにコンビニがあり裏手に眼鏡橋があった。

 なんの変哲もなさそうな小さな橋で案内板には1802年に掛けられた熊本県最古の石橋、官軍は田原坂攻略の為にこの眼鏡橋を拠点としたとあった。
眼鏡橋   道の隣の田原坂公園も桜が満開
一ノ坂の標識、二、三も同じデザイン 一ノ坂を登る
  
 のどかな田園風景が広がっているが左側に入る道が田原坂への入口だ。一ノ坂は歩いてみて解ったのだが一ノ坂の勾配が一番急で長い道だった。両側から山が切り込んで視界も悪く今でも鬱蒼としている。攻めにくく守りやすい地形になっていたのは現在も同じ。この道を通ろうとした政府軍を、道の両側から薩摩軍が攻撃、あるいは日本刀で斬り込まれ多くの戦死者を出したという。

 二の坂は大した勾配ではないが道幅は同じで途中に西南之役戦没者慰霊碑があった。三の坂もなだらかで資料によれば三ノ坂から坂の頂上までの300mを官軍、薩摩軍が争って一進一退したという。

 三の坂を過ぎ、田原坂をのぼりきると、桜とツツジの田原坂公園であった。公園には『田原坂』にも歌われた「馬上豊かな美少年像」の向こうで、お弁当を持って満開の桜の下で多くの人々が集まって花見を楽しんでいる姿があった。

 
「馬上豊かな美少年像」と桜
 
 西南戦争歴史資料館は2015年に改修され新しい建物になっていた。展示内部も改修され山中に潜む薩摩軍兵士の様子を再現した体感展示や映像や音など迫力満点が味わえた。実際に使用された銃やかちあい弾、両軍の兵士の人形や古文書などもあった。

 公園には「西南の役戦没者慰霊の塔」があり、戦死した政府軍4454名、薩摩軍1134名、殉難者29名の名前が刻まれていた。数多の犠牲の上に明治維新があり現在の日本の発展に繋がったのだ。

 ここにはほとんどの人が自家用車かレンタル車の観光客が来ていて、私のように歩いて訪れる人は少ないようである。駅で買った弁当を食べた後は田原坂駅に向かったが最初から右か左か解らない、解らないときはスマホのグーグルマップの指示通りに歩くことにした。
 
西南戦争歴史資料館 当時の弾痕跡
 
 
 のどかな風景が広がっている中を歩いて行くといつの間にか農道になり道幅が狭くなってきた。このまま進むべきか戻ろうか迷っていたら近くに住んでいるおばさんに出会った。田原坂駅への道を尋ねると「持っているスマホを見てそれで来ると迷う人が多い・・・ト」「何処から来た・ト」・・迷う道だから教えてくれるという話になり一安心。

 一緒に歩き出したので道を教えていただければと同行は断ろうとしたが・・・ここは難しいからそこまで・・・ト!かなりの時間を一緒に歩いてくれ事前に知っていたリサイクルセンターの建物まで来てしまった。それでも心配なのかここから駅までの道を繰り返し教えてくれたおばさんの対応に感謝の気持ちで一杯になった。

 ここから田原坂駅までは田原坂駅から歩いて歴史資料館へは急勾配を登り案内板もないのでトレッキングなら木葉駅からの方がよい。木の葉駅から田原公園まで1時間10分、帰りの公園から田原駅まで1時間を歩いた。

 
道案内してくれたおばさん! 田原坂駅は無人駅だった
  熊本駅に戻ってから電車に乗って明日の熊本城見学のため市役所に向かった。熊本市役所の14階は無料で開放されていて熊本城から道路を挟んだだけの至近距離にありしかも高い位置にあるため、熊本城内の全体像を見渡せた。

 復旧工事のため天守閣は見えず、石垣が大きく崩落して1本の石組みだけで支えられていたあの飯田丸五階櫓の様子も見えなかったのは仕方が無い。今日の夕食は熊本に来たのだから馬刺しか熊本ラーメンだろう。(本日の歩いた歩数:20,830歩)
 
市役所の14階へ ロビーから見た熊本城
  熊本城の周囲を歩く (3月30日)
 
 2016年4月の熊本地震で大きな被害を受け復興に向けて着実に歩み続ける熊本城は現在どんな状況なのか見学した。城の入口にはこの城を作った加藤清正公の像が真っ白な花で囲まれていたが、これも桜なんだと判ったの幹に「千原桜(ちはらざら)」と書いてあったからだ、この桜は熊本以外には無さそうで非常に珍しい。
 
 ここから食事や買い物を楽しむことができる「桜の馬場、城彩苑」があったが朝の時間なので開店してない店もあったが外国人や日本の観光客が歩いていた。この場所から見学コースが仮設で整備されていた。

 
熊本城の長塀(全長約242m)と満開の桜
加藤清正公の銅像の周りは真っ白な「千原桜(ちはらざら)」が満開

 熊本城全体の復旧には20年もの歳月と莫大な費用がかかると見込まれている。がんばる熊本城を見に行くのも、熊本の復興支援のひとつ、城内に入って見学することはしばらく出来ないものの熊本城の今の姿を眺められる場所はいくつもあった。
 
名前は忘れたがこの櫓の石垣が美しい   二の丸広場へ
 
西大手門、戌亥櫓の無残な姿 

  城彩苑から二の丸広場への通り道には仮設通路が出来ていて歩けます。二の丸広場からは、西大手門、戌亥櫓が現われて無残に壊れたままで手つかずの状態だった。
 
至る所で大きく崩れている 戌亥櫓と言われる石垣も手つかず 
 一時保管の石には番号が付いていた  加藤神社に参拝
 
加藤神社からの天守閣の修復 
 
 加藤清正公が祭られている加藤神社は城の天守閣の修復工事が最も間近で見られる場所のようで多くの参拝客が来ていた。 この神社に参拝して棒安坂を下って行くと一周のコースも終わりになる。

 不開門や、東十八間櫓、北十八間櫓などの案内板を見ながら熊本城稲荷神社に出た。加藤清正公が肥後の国主として入国するにあたり勧請した神社なのでお参りして約2時間の本日の見学は終わった。

 熊本城は思っていたより大きかった、地震の被害も思っていたより甚大だった。熊本の人々の城に対する思いや復興に向け突き進む熊本の姿に感動した。

不開門近くの桜 熊本城稲荷神社
 
水前寺公園  (3月30日)
   
 水前寺成趣園には路面電車を使うのが便利と聞いたので下車すると直ぐに公園になった。庭園は思ったより小ぶりだが手入れが行き届いている池の周りをゆっくり散策した。付近の人々がシートの上で花見している姿も見られた。

 素晴らしい景色を眺めながら抹茶をいただいた。ネット情報だが1636年に江戸時代の藩主であった細川家ゆかりの御茶屋に開園した庭園が始まりで以前首相だった細川護熙氏はこの細川家の子孫である。(本日の歩いた歩数:19,786歩)


富士山のような山があるのが印象的な庭園

抹茶でゆっくり休んだ
   鹿児島に戻る (3月31日)
   
 なぜ鹿児島に戻るのか?それはネットでの空港券の手配の仕方のミスが原因である。帰りは熊本空港から羽田に帰る予定だったがクリックで間違えた。直ぐに気が付けば良かったが頭の中は熊本で固まっていたので直前まで気が付かなかったのだ。

 朝早く熊本から鹿児島まで戻って我町の近くにある明治の元勲である大山巌元帥の生誕地を訪ねた、地図を眺めていると背後から女性から何処に行きますか?と声が掛かった、聞いてみたらボランティアの案内者でいろいろ説明してくれながら生誕地の碑がある所まで案内したくれた。

大山巌の生誕地の碑 ここでも記念に一枚
 
 ここの説明文には「下加治屋郷中の元気坊」ー日本陸軍の創設、近代化に捧げた生涯・・・「最後に1916年(大正5)に永眠、国葬によって那須(栃木県)に葬られた」と書いてあった。

 ここで時間を使いすぎた、鹿児島発14:35発のチケットなのだが途中でいつの間にか頭の中が午後4時になってしまった。空港に午後3時着いたが既に出発した後だった、JALの窓口のお嬢さんの親切な対応に感謝しつつ追加料金を1万円支払って次の便で戻った。大失敗!!(^_^)v


 ひとり旅で感じたこと
 鹿児島、熊本のひとり旅の5日間が終わり思い出として残っているのは各地での満開の桜は当然として、出会った人との交流と美味しかった食べ物だろうか。中でも田原坂の帰りに道で迷った時に親切にも大通りまで一緒に歩いてくれた農家のおばさんの親切であった。

 旅先でも夜は9時に就寝して朝は4時に起床の生活スタイルは変化しなかった。ひとり旅だから出来ることだが・・朝食までの時間はその日のスケジュールの確認は無論だが自分自身と向き合う時間でもある。


3月31日の鹿児島空港は東京へ帰任するサラリーマンらしき人の見送りで賑わっていた
 
 旅を楽しむことで、日々の生活の中の大切なことが、もっとはっきりとわかる。日々の暮らしが少し単調になっていることに気がついたり、もっと前向きな行動を続けることこそ、人生を良い方向へと導いてくれそうだ。
旅をするということは、自分を知り、前向きに生きるための活力につながっている。

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