奈良・大和路ひとり旅

2017年5月


 
石舞台古墳や高松塚古墳などの遺跡、亀石や酒船石のような

謎の巨大石があり、6世紀から平城京遷都の710年年まで

政治・文化の中心舞台となった飛鳥の里や奈良を歩いて見たいと

改めて関係する書籍を購入して読んでみた。

この時代を生きた古代の人々の息づかいを想像カを駆使して、

美しい田畑や野の下に眠る、古代人の

文化・生活を感じてこようかと「大和路の一人旅」に出発した。

   平城宮跡・唐招提寺へ(5月9日)
   
 昼頃に奈良市に到着し西大寺駅で降りて平城宮跡に向かった。だだっ広い敷地の中に復元された大極殿が見え、近づくとその迫力ある大きさに驚かされた。奈良時代、天皇が暮らした内裏や役人たちが政務をとりおこなった官庁などが立ち並んだ平城京の心臓部であったのだと踏みしめながら朱雀門に向かった。

 朱雀門まで歩くと広大な面積に驚くばかりである。朱雀門に近づくと踏切があり近鉄電車が走っている。非常に違和感があるが時代の差からこのようになってしまったので仕方がない。

 朱雀門に居たボランティア案内者から発掘内容などの話を聞くことが出来た、この近鉄線は移築する予定だというが一体いつになるのか?はっきりしたのは私が生きている間には実現はしない。710年〜784年当時にこのような建物があったことにただ驚くばかりだ。

広い敷地の中を進む 高台にある復元された大極殿
朱雀門への道を横切る近鉄電車  朱雀門も近づくとやはり迫力が有る 

 唐招提寺への行き方を尋ねたら遠いからバスを利用して行くようにとアドバイスされたがやはり歩くことにした。

   スマホのGoogleMapに案内してもらい約40分で唐招提寺に着いた。唐招提寺といえば日本の仏教を正しい方向に導いてくれた鑑真(688-763)である。以前からみたいと思っていた寺であったのでゆっくりと国宝の金堂、講堂、校倉(2棟)、鼓楼など見て回った。


金堂

 唐招提寺の境内の回っていた時に礼堂側面の塀の雰囲気が2008年に訪問した韓国・安東市の河回村(ハフェマウル)で見た朝鮮時代の家屋街にあった塀と似ていることだった、百済などの朝鮮半島との文化交流を感じたのだった。

唐招提寺の壁 韓国の朝鮮時代の壁

 近くの薬師寺に向かって歩いて行くと興楽門が見えてきた。興楽門をくぐって直ぐの建物の中に発掘物の中に当時の鉄製の大きな釘が展示されていたのが印象に残った。

「食堂(じきどう)」の再建工事は終了しいたが東塔は解体修理中で覆屋に覆われておりその姿を拝むことは出来なかった。

朱塗りの興楽門
大きな鉄製の釘 美しい西塔
 
 薬師寺を出て大池に向かう途中で心配していた雨が降り出し雲も低く垂れ込めて来たので、これでは大池からの薬師寺風景も見られない。今日の予定はここで切り上げて西ノ宮駅に向い奈良市の宿舎に向かった。


  飛鳥の里を歩く(5月10日) 
   天気も回復し飛鳥の駅に向かうが手前の橿原神宮前駅で何故か乗り換えが必要だった。駅員に聞いたら理由は近鉄橿原線と飛鳥駅のある近鉄吉野線は軌道が違うことを初めて知った。

 近鉄吉野線はの企業買収、合併などで昔のままで、不便なことに狭軌の1067mmだったのだ。

 飛鳥駅に下りて観光案内所で説明を受けて地図を貰って近くにある最初の訪問地の高松塚古墳に向かった。

 古墳の手前に山をくりぬいた「壁画館」があったので見学した。すべて現物と同じレプリカだが本物を見るのと同じようで非常に感動した。

石室の内部はあざやかな色彩で彩られており、特に女性の姿が印象的で古代でも女性が陰で支えていたことが考えられる。何時の時代も女性の力の大きさを感じた。また衣服や彩色などの製造技術にも驚くばかりだった。

数人が飛鳥駅で下りた 駅から道路沿いを歩く
高松塚壁画館 高松塚古墳
 
明日香の里の村風景を眺めなら吹く風が快く感じる中を歩いた。不思議な巨大遺石の鬼のせっちん、鬼のまな板、亀石などや橘寺の二面石を見てから石舞台古墳に向かった。

近くの小学校の生徒(5年生)が野外学習で調査のためこの石の周りでメモを取っていた。内幅1.5mの石。

「せっちん、って何だろう?」と話していたから「説明文に書いているだろう・・昔の言葉でトイレの事だよ」と教えてやった。

しかし鬼は実際には居ないから「昔話」だよね、と女の子が話していた。
 
 数十メートル先の道路から石段を上がったところにあったのは「鬼のまな板」と呼ばれている巨石。長さ約4.5m。

実は1つの古墳の石室が盛土が無くなり、二つに分かれ横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)である。

しかし鬼が付近を通る旅人を俎の上で料理し、雪隠(トイレ)で用を足したという話が面白い。
売店の横のつい見過ごしてしまいそうな場所に鎮座していた。

巨大な花崗岩(長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8m)に亀に似た彫刻が彫られている。なんともユーモラスな遺蹟である。

川原寺の境界を表す標石であるという説もあるようだが製作年代も目的も不明のようだ。
 
 橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するとあった。

付近には聖徳太子が誕生したとされる場所もあるそうで、なんとも明日香は古代の歴史が身近に感じる。

橘寺にある「二面石」も謎の石造物の一つ、人の心の善悪二相を表わしたものであるとされている。

 石舞台古墳では多くの学生と観光客が集まっていて流石に人気があるようだ、団体客は石舞台の前で記念写真を撮って次々と流れるように通り過ぎて行くので合間に石に触れ古墳内部に入り観察出来た、まさにどうしてこのような大きな石をどうやって運んだのか不思議だ。

 近くで地元の若い人がここをアピールするためにVR(virtual reality)で古代人が建設している仮想空間をまるで現実のように見せてくれた、参考になり面白いアピールの方法だと思った。


大勢の学生の団体が過ぎ去った合間に撮った石舞台遺蹟
 
記念撮影
入口から内部に入れる   古墳内部
   
 石舞台から北へ20分ほど歩くと「岡寺」がある。山の中腹にあるので途中からかなりの急な坂道の参道を一歩一歩踏みしめ上がった先には仁王門が現われ更に石段を上がると立派な本堂があった。木立の中のこの寺も我家の菩提寺と同じ真言宗豊山派であった。

 本尊は塑像としては日本最大の観音像である。きりっとしてパワー溢れる顔つきの塑像である昔から厄除や巡礼などでお参りをした人々を優しく力強く守ってくれる観音様であった。

 
本堂 三重の塔
 
 次は飛鳥寺である蘇我氏の氏寺として596年に造営され、2度の金堂消失があった。日本最古のお寺で本尊飛鳥大仏は渡来系の仏師に推古天皇が造らせたとあった。このお寺の裏に入鹿の首塚がある。当時は蘇我氏の立派なお屋敷があったそうだが現在の飛鳥寺は田圃の中にひっそりと建っていた。
 
飛鳥寺  首塚
 
 既に朝の9時40分からすでに午後4時まで歩いた。今日はここで終わりとして寺の前にある停留所から周遊バスに乗って樫原神宮前駅に向かった。この地域は緩やかだが坂が多く歩くのは思ったより疲れる、明日はレンタサイクルを利用しよう。

 明日香と飛鳥についてはいろいろな経緯があるようで詳しくはネットで調べられるが村名など自治体名を表すときは「明日香」を用い時代名や他の名前は「飛鳥」と解釈すればよさそうだ。

 明日香村にあるホテルか民宿が予約出来なかったので奈良市のビジネスホテルまで戻った。明日香村にも多くの宿泊先があるので宿は早めの予約が必要である。明日は自転車を借りて後半の明日香回りをして京都のビジネスホテルに泊まるように変更した。
飛鳥の里を歩く(5月11日)
 
 三日目(5月11日)は樫原神宮前駅で降りてまず駅前のレンタサイクルを900円で一日借りた。駅の近くの樫原神宮は第一鳥居、第二鳥居があり、美しい表参道を歩き手水舎の反対側の南門を抜け砂利道を歩いて拝殿があった。

 朝の静かな爽やかなな雰囲気の中で大和三山の畝傍山を背に神聖で格式ある拝殿でお参りした。
樫原神社の参道 静寂な早朝の境内
荘厳な感じの拝殿
 
 自転車に乗るのは何十年ぶりだろうか?どうもしっくりしない、甘橿丘に向かう道は結構坂を登る途中で段差に乗り上げて横に倒れた、近くにいた人が掛け寄ってきて「大丈夫すかか!」と聞かれお恥ずかしい限りだった。幸い怪我もなくなんとも気恥ずかしい事故だった。

 日本書紀に出ているという剣池が途中にあった。堤に登って眺めてみたがどこににもある農業用のため池という感じだった。

 細い道を近道の細い道を行くと二人連れが歩いていたから甘橿丘への道だ間違いないのかと確認しようと近づいたら外国人だった(^^)/・・GoogleMapのおかげで甘橿丘の丘陵に着いた。駐輪場所がありそこから標高148mの丘陵を登り展望台に立った。
 
剣池 甘橿丘を登る
丘に到着 明日香の里と大和三山を望む
 
 古代の大豪族・蘇我氏の大邸宅があったとされる甘橿丘から明日香の里を眺め畝傍山・耳成山・天香久山の「大和三山」を遠望できた。1300年経っても大和三山の姿は変わらないはずで歴史の重みを感じた。

 中年の二人の女性が登って来たので記念写真を撮って貰おうと依頼したら宇都宮市から来たという、レンタカーで大和路を回っているようだった。

 
左側が畝傍山、右が耳成山
耳成山と天香久山

 飛鳥宮跡への道は農道のような道を歩いてやっと着いた。途中で歩いて回っている女性から飛鳥寺への道を聞かれたので方向だけ教えた。もう少し方向を示す案内板があっても良いと感じた。

 パンフレットにも現地の案内板にも伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)とあったが2016年6月に国の文化審議会は四つの宮殿遺構が重なった複合遺跡であることが判明しているので現在の名称では一時代の宮殿しか示しておらず、観光客らが混乱するから飛鳥宮跡にするというのが答申の内容だった筈だ。

 古代に中大兄皇子と藤原鎌足は飛鳥板蓋宮でクーデターを起こし、蘇我氏を滅ぼした。やがて飛鳥時代は終わりを告げ、古代史を物語る貴重な遺跡は、長い歳月この土の下に埋もれたのだった。

 遺蹟跡を眺めていると悠久の時を超えて、古代の壮大なロマンを語りかけてくるようだ。 

 
飛鳥宮跡 伝飛鳥板蓋宮跡の案内板

  酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は小高い丘の道路脇に駐輪して登って行くと竹やぶの中に現れる謎の巨石(長さは5m、幅2.3m、厚さ1mの花崗岩)があった.。幾何学模様が彫られている巨石を誰が何のためにどうして運んできたのか不思議な巨石であった。

 案内パンフレットにはこの隣に亀形石造物があったが酒船石の方は無料で誰でも見られるが亀形石造物とある方は入場料300円を支払って見ることが出来た。不思議なことに戴いた案内書には亀形石造物(酒船石遺蹟)とあり、全体として酒船石遺蹟としたいようだが観光客には解りにくい。時代と共に発掘が進み案内書も名称には苦労しているようだ。

 
酒船石遺跡 亀形石造物
 
 
 飛鳥水落遺蹟は楼状建物跡とそれに付随する水利用の施設で出土した土器の検討から650年〜660年代の間に造営され廃絶したと推定されていると案内書にあった。。

 見学後に道ばたの木陰で付近の風景をスケッチしているグループに出会った、挨拶してから見学させてもらった。水彩画で筆遣い色使いなどかなり慣れている人達だった。

 遺蹟めぐりは歩いても、慣れない自転車でも思ったより疲れた、今日は自転車でも17000歩いた。まだまだ巡りたい場所は有るが次回に残して京都のホテルに戻ることにした。

飛鳥水落遺蹟 明日香をスケッチ
 
甘橿丘付近の風景
京都に立寄る(5月12日)
   京都の観光地として人気のある「伏見稲荷大社」はまだお参りしたことがなかったので奈良の帰りには立寄りたいと思って京都に宿泊して早い時間に訪問した。

 朝早くなら観光客も少ないだろうと思って朝の9時に到着したらすでに修学旅行学生や観光客が押しかけていた、外国人にも人気があるようで大勢見受けられた。朱色の鳥居が連なる「千本鳥居」が神秘的ですばらしい。祇園の街歩きや東大手門修復後の二条城など回って半日間の京都観光で帰宅した。

 

 飛鳥の里を歩いて感じたこと
 明日香にはビックリするような多くの遺蹟があり。自然あふれるのどかな田園風景を味わいながらゆっくり歩けたし、レンタル自転車利用で短時間に飛鳥時代の都として栄えた歴史の重みを感じながら古墳や史跡などを見ることが出来た。秋になったら再訪問したいと思う魅力的は飛鳥の里であった。
 

 
 関係者はそれぞれ地域の活性化の一つとして観光客の誘致にご努力しているようだが、今回の旅で感じたことは・畑の中の道路には小さな矢印案内板あっても良い、甘橿丘から飛鳥宮跡へ行くのに苦労したし、途中の畑中の道で飛鳥寺への道を迷っている観光客にも出会った。周遊バスももう少し巡回回数を多くして貰いたい。

 歴史的な名称は変えられないが観光客向けの名称も必要である。伝飛鳥板蓋宮跡などの名称は一般観光客には解りにくいから早く飛鳥宮跡に統一すべきではないか、パンフレットも同時に変更願いたい。


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