天皇発言に対する韓国マスコミの反応
1・朝鮮日報(12月23日)   (全日本が沈黙してきた‘ルーツ’を言及「意外」)

日王家に百済王室の血が混じっているという明仁日王の発言を、『朝日新聞』を除いた大部分の全国紙とテレビは一言も報道しなかった。日王自らが王室の「ルーツ」に触れたというニュース・バリューを考えると、異例なほどの沈黙だ。 ある日刊紙の王室担当記者は、報道をしない理由について「(日王の)個人的なお考えなため」と説明したが、当惑している様子だった。ある王室専門の評論家は「皇室の血統問題が公然と出現したことを避けるマスコミと保守的な指導層にとっては困惑しているだろう」と指摘する。

今回の発言が日本政府と事前の調整がなされた痕跡はなく、日王自らの判断によるものである可能性が高い。記者会見での質問は、慣例によって事前に提出する。しかし、宮内庁の実務者が準備した回答資料に「百済」や「武寧王」などの言葉はなかったと、いくつかの消息筋は伝えている。
王室問題に詳しいあるジャーナリストは「政府と関係のない個人の認識だとしても、政治的意味合いのない(日王の)発言としてはあり得ない」と指摘する。朝鮮半島に向けた日王の計算されたメッセージが込められていると見るべきだろう。

実際に、日王は韓国に対する関心が少なくはないことが知られている。ある韓国の外交通商部幹部は「日王と何回か接する機会があったが、韓日関係に熱意と興味を持っていることを感じてきた」という。 今年4月、東京で公演された韓国オペラ「ファン・ジニ」を日王夫妻が観覧したことが代表的な例だ。当時、教科書問題で駐日韓国大使が韓国に召還された状況で、日本政府内でも反対する意見が少なくはなかったが、結局観覧したことで、日王自らが決断したということだ。

英国的な「開かれた王室」路線を打ち出した日王には、韓国訪問が最後まで残された王室外交の宿題だ。日王は欧州、米国、中国はすべて訪問したが、韓国だけは公式招請(1998年の金大中大統領)を受けてもまだ足を踏み出せずにいる。
そのため、訪韓を実現させ、父親(裕仁日王)から受け継いだ過去の歴史という遺産を早く消化したいという可能性がある。しかし、絶好の機会として検討された2002年ワールドカップ・サッカーの開幕式である5月31日の訪韓は、すでに不可能になったとされている。  もちろん、今回の日王の発言は、学問的な新しい事実を明らかにしたのではない。ただ、数人の学者だけが認識していた「歴史的な事実」が、日王自らの口から「一般的な事実」として変化し、大衆的な伝播力を持つようになったという点で混乱は少なくないだろうと専門家たちは見ている。

 ある外交消息筋は「単一民族と万世一系の神話に浸っている日本国民には衝撃的だろう。韓日両国国民の情緒にどのような影響を与えるか注目される」と指摘する。もちろん、「家父長的天皇制」を支持する国粋主義グループは、今回の発言には不満が大きいだろう。

2、中央日報(12月23日)   「百済王の子孫が桓武天皇の生母」明仁天皇、韓日の縁を強調

日本天皇が古代韓日間の交流事実と韓国とのゆかりを強調し、「2002年韓日ワールドカップ共同開催を機に、両国民の理解と信頼感が深まることを願う」と述べた。 明仁天皇は68歳の誕生日を迎えた23日、特別記者会見を開き、韓日両国の人的・文化的交流問題に言及しながら「韓国とのゆかりを感じている」と話した。日本の天皇が韓国との歴史的交流事実を取り上げながら両国の関係に対して具体的な立場を表明するのは異例だ。

明仁天皇は「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されている。韓国から移住した人々や招聘された人々によってさまざまな文化や技術が伝えられた」と韓日関係について話し始めた。 天皇は「こうした両国の文化交流は日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っている」とし、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じている」と話した。

天皇は「武寧王は日本との関係が深く、この時に五経博士が代々、日本に招聘されるようになった」とし、「武寧王の子・聖明王は日本に仏教を伝えたことで知られている」と付け加えた。天皇は、宮内庁楽部の楽士の中には当時の移住者の子孫で、代々、楽士を務め、今も折々に雅楽を演奏している人がいると紹介した。 天皇は「しかし残念なことに、韓国との交流はこのような交流ばかりではなかった」と強調した。

天皇は「ワールドカップを控え、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えている」と述べた。

3、東和日報、       「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張

日本の大阪市内の百済駅。貨物を専門に扱うこの駅の漢字名は百済駅だ。辺りには百済高校まである。日本列島に現在まで残る百済の痕跡だ。日本王室の宝を収蔵している奈良市にある東大寺の正倉院。朝鮮半島から渡来した先進文物が相当数保存されているこの場所は、まず建物の姿形からして高句麗民家に良く見られる桴京(プギョン)とまったく同じだ。

日本列島のあちこちに残っている朝鮮半島の文明の跡を見付ける度に歴史学者らは興奮する。朝鮮半島からの移住民たちが日本に渡り先進文明を伝えたことのみならず、日本王室の根を形成したという主張は、実は韓国内ではこれまで少なからず出されてきた。歴史学者らが韓-日古代関係史を疎かにしている間、これらの主張は古代史の世界を興味津々に伝逹し、相当の大衆的な認識を構築してきた。

明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781〜806年)の母が百済系という程度のみを認めたが、これらの主眼は400年以上さかのぼる。 15代応神日王が百済系という主張がそれだ。 82年に『沸流百済説』を提起した金聖昊(キム・ソンホ)韓国農村経済研究院顧問は、広開土大王碑から出てきたように396年、沸流百済最後の応神が日本に渡り15代日王となったという。
金顧問は沸流百済は本来中国にいた呉族が朝鮮半島に渡り発展した倭族が作った国であり、したがって応神日王は朝鮮半島南部に居住した倭族だったと主張する。

『日本古代史研究批判』、『日本古代史の真実』などを発行した崔在錫(チェ・ジェソク)高麗大名誉教授(社会学)は『日本書紀』に根拠、 7世紀中盤の舒明日王が百済系だと注目している。崔教授は「639年舒明日王11年に百済川周辺に宮廷を作り、百済大賓という名前だったという記録が出てきた」とし、「舒明日王は641年百済宮で死去し、賓所を百済大賓とした点から見て百済系なのが明らかだ」と言う。教授はここでもう一歩踏み込む。日本の母体となった大和倭が400年頃百済系
移住民によって作られたため日本の王室は百済系だという主張だ。

『今昔碑文を通じて見た百済武寧王の世界』を発行した蘇鎭轍(ソ・ジンチョル)円光(ウォングヮン)大政治外交学科教授は漆器を根拠に「日本の倭国は4世紀後半から百済の侯国であり、日王はこれら侯国の君主のうちの一人だった」と主張する。これだけではなく「7世紀飛鳥地方にいる80〜90%が渡来人だったという文献もある」と話した。一昨年「日本の天皇は韓国人だ」という本を発行した洪潤基(ホン・ユンギ)韓国外大教授は「日本の古代王室系図の『新撰姓氏録』を含めた主要文献と百済と新羅の神を祀った日本王室の祭祀慣習として行う点から見て、日本王室は韓国人に間違いない」と主張する。